セキララブログ
腐女子の赤裸々な雑記。イラスト描いたり萌えたり落ち込んでみたりと色々やってます。ブログを通じていろんな人と交流したいなあ。古い記事でも一言コメントしてもらえるとうれしいです。
留年生活〜学校へ行こう!(嫌だけど)〜
トモダチイナイカラネ。
違うことと言えば去年の前期は卒業充足単位がまだ残ってていくつか授業に出ていたということがひとつ。
今年は卒論指導の先生のゼミに出ているけど、単位は充足しているのでさほど切羽詰った感はない。
あとは去年はクラスメイト的な存在の人と卒論指導の度顔を合わせていたことかな。
友達とか作っている精神的余裕がなくって、その人と付き合いは二年ぐらい会ったのに心を開けずなんか悪いことをした。
今年も卒論指導を一緒に受ける人が私のほかに二人いるのだが、学年が違う(正確には入学年度が違う)ので自然に距離がとれる。
友達じゃなくっても自然というのがお互いの共通認識なのでそこんとこ楽です。
しかし先輩とか言われると複雑な気分だ。
私は君よりダメだから先輩やってるわけなのだよ?
そうそう前回の卒論指導でアルバイトの話題で盛り上がってて蚊帳の外だったな。
「先輩は今まで何かアルバイトやってましたか?」
と聞かれて、
「いや、やってない」
とかバカ正直に答えてやんの。
相手もこんな答えは想定外だっただろう。
やっぱり私って普通の若者の在り方から相当外れているんだなとしみじみ実感する。
早くこの場から消えたい!と思った。
フツウノワカモノコワイヨコワイヨー。
卒論指導もひと段落着くと先生に夏休みに息抜きするようにと三回ぐらい念を押される。
そんなに私はアレな感じなんだろうか。
真剣な顔で言われたし。
後輩二人は夏休みの遊ぶ計画で盛り上がっていて、「この人たちについてってもいいし」なんて言ってるし。
いやーそれは息抜きにならないよ。むしろストレスフルだ。
でもまー自分にとっての息抜きを考えてみようかなぁ。家にこもる以外のことで。
大きいもので一人旅、小さいもので一人散策かな。
とまあこれは二週間ぐらい前の話。
もっと遡って5月のゼミでの発表でイヤ〜な感じのすることが起こった。
私は前々から発表は苦手で、説明しているうちに段々舌が回らなくなり、喋るスピードが落ちて言葉が絶え絶えになるという現象が私の体に起きる。
それがこの前の発表では説明しているうちに段々意識が遠のくにグレードアップしていた。
変な汗を多量にかき、顔が火照る。
私の様子がおかしいのに気付いて、斜め前の生徒がチラッと私を窺う。
ああ、はやく終わらせないとこのままでは本当に失神してしまう、と焦る。
息も絶え絶え、意識の朦朧とする中なんとか発表し終わり、質疑応答の時間になると憑き物が取れたようにスーっと回復してゆく。
一体なんなんだこれは。
みんなの前で意見を言うとか、質問に答えるとかは全然平気。むしろ質問するのは好き。
そこで考えられる理由は二つあって、
私はおそらく普通の人より会話をすることが少ないので、普段使わず衰えている呼吸器官および筋肉を使うためずっとしゃべる続けるってことが困難なのかもしれない。
それから人前で何も反応が返ってこない状態でしゃべり続けるとどんどん不安が蓄積していくような感じがする。
誰かに向かってしゃべっているはずなのに、だんだん周りがなくなって虚空に向かってしゃべっているような感じがしてきて怖い。
おしゃべり機能を鍛えるためにときどき朗読とかやっているんだけど、その時はこんな症状はでないので長くしゃべることよりも、この無反応の聴衆の前で話すというところに問題の根源があるんだろう。
でもどーしようもないな。先生に相談して発表形式を変えてもらうとかは最終手段だし。
私にできるのは最近やってないので日常的に朗読することと体調を整えることだ。
前回の記事の貧血のようなめまいとも関係がありそうなので、自律神経失調症の改善に向けてなにかやってみる。
やってみるというか今やっているんだけどね。
どうか今度の発表で失神しませんように!アーメン。
(そういや失神ってキリスト教が語源っぽいね)
セントジョーンズワートは西洋弟切草なんだってさ
世界のお守り大全って本なんだけど、そのなかに「聖ヨハネの草」というのがあっ て英語だとセント・ジョンズ・ワートとなっていた。
あ、これ薬局やらネットで見かけたセントジョーンズワートじゃん!と興味を引か れたので詳細を読んでみた。
今だとストレス社会の要請だかで服用されているけど、魔除けとしても使われてい たらしい。
そんでこの植物がなんで聖ヨハネの草なのかというと、ヨハネが首をはねられた時 にかかった血が葉の表面の赤い斑点として残ったという伝説からなのだそうだ。
あ、れ?なんかデジャブ。
あれだ、弟切草、ゲームの!
兄に弟が切り殺されて血が降りかかったってヤツ。
あれと一緒じゃん、じゃあセントジョーンズワートって弟切草なの?と疑問に思い 検索をかける。
と西洋弟切草となっていた。
ついでにオトギリソウをwikiでみると「この草を原料にした秘薬の秘密を漏らした 弟を兄が切り殺したという平安時代の伝説」なんだそうだ。
偶然の一致なんだろうか?
気になって仕方がない。
こんな調子で楽しいんだけど、どんどん色々なものを関連させてっちゃう、挙句に は飛躍しちゃうというのが悪いくせのようで、卒論の執筆に取り掛かる前に構成が ハチャメチャになったというのが去年の敗因。
楽しいとか言ってる場合うじゃなかったわ。
そこは反省しないといけない。
なんか病的な気もするし。論文は集中して掘り下げなきゃいけないのにどんどん広 がって誇大妄想っぽくなっちゃうのは。
指導教授に「それは飛躍しすぎじゃない?」と言われて、自分って誇大妄想を持っ た変人っぽかったかなと恥ずかしくなった。
統合失調症の症状のひとつの関係念慮ってやつに近いのかなーと疑っている。
例えば、何気なく選んだ本がぴたりと自分にフィットすると、私はこの本を選ぶべ くして必然的に選んだ、私が必要とする情報は自然とやってきて私を救ってくれて いるという気がしてしまう。
人に対しての被害妄想はほとんどないと思うけど。
あーセントジョーンズワートでも飲んで心を落ち着けようかな。ご縁があったと思 って。
最近くらくらして貧血っぽいなと思ってたんだけどこれも自律神経失調症の症状ら しい。
春になると体が興奮状態に入るみたいで微熱が続く。
成人した辺りから毎年恒例の〜、みたいになっている。
体が興奮状態になってる感じというのも交感神経が過剰に働いてるということみた いだ。
今ヘム鉄飲んでるんだけど、貧血状態が改善されない。
自律神経が原因だから効かないってことなんだろうか。
セントジョーンス→セントジョーンズ
09年6月24日訂正。
勘違いしていた

「スッキリ!!」の後ろの絵って……
そうじゃないかな〜、いや絶対そうだ、う〜んでもまさか、とぐるぐる逡巡。
やっと解決しました!
やっぱり!!
http://www.ntv.co.jp/sukkiri/contents/gallery/2008/11_hagiomoto/gallery.html
http://www.ntv.co.jp/sukkiri/contents/gallery/2008/12_hagiomoto/gallery.html
遠目だとアシジンに見えるけどテリー伊藤だったの?ていうかよく見ると三日月の傷があるからやっぱりアシジンなの?
ということは、加藤浩次のほうはもしかしてグリンジャなの?
ええ!?すっごくバ(ry
このアホの子っぽいグリンジャいいなー。
このブログまだ生きています
勝とうなんて思わないさ、負けでも華々しく散ろうなんて勢いもない。
そんなとりあえずのファイティングポーズ。
向上心も目的も無いよ。
さあ何しようか。
とりあえず近況とか書いてみる。
さて、新学期ですね。
………えへへ、留年しちゃったw
さほど落ち込んじゃーいないんだがやる気でねぇです。
卒論の集まりで新4年生にバッてガン見されてちょっといたたまれないっす。
卒論指導が去年と同じ先生なんだが、今年はたくさん生徒を抱えるらしく(といっても3人+部外者1人)その子たちに会うのが心労です。
普通に元気で明るい大学生で、普通じゃない私はすっごい疲れる。
こういうのを目の当たりにすると、私という存在はなんて不自然でギクシャクしてるんだろうってしみじみ思うんだわ。
今年は飲み会もやるからとか言ってるし。
やるなら楽しいゼミの方がいいでしょって。
すごくいい先生で尊敬もしているんだけど、私は飲み会に馴染めないだろうってのを読み取って欲しかったな。
はあ、どうやってうまく断ろうか。
ブログいじりました
業務連絡(?)がふたつほど。
ひとつはブログ応援アイテム内の変更。
ぶろぐひろばはあまり意味がないような気がする&いちいちランキング見るのめんどうなので撤去しました。
今まで応援してくれた方ありがとうございます
それからブログ村のカテゴリを人格障害に変更しました。
一貫したことをやれてなくてカテゴリどーしよーかなと思っていたし、カテゴリに当てはまるために無理して記事を書くのもどうかなと思ってブログ村のカテゴリにはもやもやしていた。
しかも三つしか選べないのよー。
イラストに映画に小説に漫画に…とこれだけでも四つだ。
最近トラックバックもめんどくてパッと記事をアップしてしまうので、ブログ村に参加する意味がない気がしてきた。
集客とか宣伝とかコミュニティーとかを積極的にやるパワーがない……。
でも最近メンヘルな記事ばっかり書いているし、人格障害っていうのは私のブログ全体を説明しているかな、と思うのでテーマにしてもこれから記事を書くのに束縛感はなさそう。
ただ“自称スキゾイド”なのでいいのかなとまたもやもやしてしまうが。
もうひとつはコメントを承認制にしました。
アダルトなスパムコメントの処理が追いつかず、あっというまにブログが汚染されちゃうのでね。
明らかなスパムでなければ承認して表示しますので、今までどおりにお気軽にコメントしてください。
織日屋の気に入らないコメントは消すわよ!という方針にしたわけではありません
他人だからいいのかも
今日は授業のあと事務に書類を提出する。
事務には苦手なおばさんがいて少々苦い気持ちを持ちつつ訪れる。
ウツウツの時期、履修を取り消しまくって「こんなに減らしてほんとに大丈夫なの!?」ときつく問い詰められたりしてこのおばさんが少々怖くなってしまった。
例のおばさんに当たりませんようにと思いながら事務に話しかけると遠慮がちで丁寧な女性が対応してくれて心底安心した。
安心と少々の幸福感もある。
私はこういうお互い遠慮する全くの赤の他人とのコミュニケーションが結構好きだったりする。
親密な関係よりも。
遠慮がちな人に道を教えたりするの好きだ。
遠慮がちな接客が好きだ。
授業でちゃんと私の話を聞いてくれた人が好きだ。
ひどいときは多幸感に包まれその時のことが忘れられなかったりする。
某有名ホテルの物腰の完璧な美形のホテルマン。(芸術の域だった。職人芸なのでこれはまた別なのかもしれない)
英会話でよくペアになった天使のように明るい女の子。
憲法のディスカッションで私なんかの話を真剣に聞いてくれた人のよさそうな明るい太った男の子。
素敵な笑顔のコンビニのお兄さん。
閉店時間に近いのに嫌な顔ひとつしないで丁寧な対応のケーキ屋のお姉さん。
ひとめぼれなのかな。うーん。
でも付き合いたいとかじゃないし。
こんなわたくしめに慈悲をかけて下さるのですか、嗚呼って感じかな(笑)
打算なしに人間扱いされている感じ。
営業スマイルっていやらしいものとされているけど、私は時々うわぁこりゃホンモノだと思ってしまう。
恍惚感というか、光に包まれてふわっと天界に引き上げられる感じがする。
天使か、マリアか、太陽のように感じてしまう。
ちょっと変だ。
逆にサービスしてますよ〜というウェットな厚かましい接客は苦手。
ドライで少し暖かい空気が好き。
スキゾイドは冷酷でロボットみたいとか説明されちゃうのはなんだか納得がいかない。
私にはこんなふうに感激家なところがあるんだけど、スキゾイドなのかちがうのか。うーん・・・
世の中ドライ&ホットな人がマジョリティーだったら幸せなのになあ。
一期一会という古くからある日本的感覚なのかしら。
ずっと一緒であなたのことを全部知りたいの、という今の恋愛至上主義とは真逆の感覚。
この頃近代化以前の日本的感覚というものに惹かれているのでこの辺りのことも知りたいなー。
とっても「喪」な気分
人前では笑顔しか許されないのだろうか。
私は一時期、何か考えようとすると自分を追い詰めるような思考や物悲しさに捕らわれて涙が止まらなくなるという状態が続いていた。
それを悪化させて過呼吸になったこともある。
よくあるシチュエーションはお風呂に入ってるときと歩いているとき。
だからよく泣きながら歩いていた。
周りは気付かなかったのか、見なかったことにしたのか、私が周りが見えてなかっただけなのか、これといって弊害は感じなかった。
これを一度だけ人の大勢いるとき両親の前でやってしまい、驚かれるわなだめられるわ隠されるわで結構大騒ぎだった。
弱い人間と見られたのは屈辱的だったし、ひとりの時とは違って恥ずかしかった。
なんでかひとり外を歩きながら泣くのは恥ずかしくないんだよなー。
こんなに悲しむのは変だなと思ったけど、こんなに悲しいんだから泣いてしまうのはしょうがないじゃないなんて思っていた。
ただ私が個人として特定される状況では泣くのは許されていないし、私自身がすごく恥ずかしいし屈辱的だと感じる。
“笑顔の君が一番”というか笑顔じゃないと迷惑というかKYというか、とにかく人に対しているとき泣くのは非社会的行為なわけです。
私は笑い声に満ちるキャンパスに居るのが苦痛なんだ。
若者の爆発的な笑い声は時に攻撃的に突き刺さる。
負の感情を振り払おうとするかのように彼らは笑う。
笑い声が痛いのはきっと私がよろよろと屈み込んで微細な負の感情を拾おうとするからだ。
そういう私の態度を嘲笑われているように感じてしまう。
それでも私が泣き虫病を克服できているのはこの負の感情を見つめて肯定してやることなんだからやめるわけにはいかない。
こういう原因だから苦しくてあたりまえじゃーん、とやるのはこじつけでも勝手な納得でも癒しになる。
あと自分の苦しさはもっと普遍的なもので、私が苦しむことは他人の苦しみを考えることでもあると思い込むこと。
苦しむことに意味はあると思い込むだけで半分ぐらい苦しみは軽減したような気がする。
気に障るのはそういった爆発的なバカ笑いだけじゃない。
大学に溢れる笑い声、明るい声、弾んだ声がなんだかニセモノめいて聞こえてしまう。
楽しくしなくてはならないから無理して楽しくしているような気がする。
時には“気”なんてもんじゃなく確信していることもある。
そうするとイライラしてしまう。
そんなの苦痛だからやめちゃえばいいじゃん。
こーいうのをよいコミュニケーションと言っていいのだろうか。
まあ社会的ではあるんだろうけどさ。
最近「喪女」という単語を覚えて自分の心境にぴったりだなーと思ったけど喪女自体はめそめそ泣いたりなんかしなそうだった。
や、わたしにも喪女的な要素はかなりあるんですがね。
で、「喪」という言葉が気に入ったので改めてみてみると、「喪に服する」って社会的に悲しみとか怒りとか後悔とか負の感情が許されている状態なんだよね。
なんかもうこの文章の帰結がもう予測できてしまうと思うんですが、現在「喪」のシステムは上手く働いてないんじゃないだろうか、そしてそれは少なくとも私は必要としているよと小さな声で叫んでみる。
人や動物が死んでもなるべく泣かない方がいいという空気がある。
泣き女とか朝鮮や中国のオーバーな嘆き悲しみ方というのもなんだかばかにできない。
あれは馴染まないとしても、みんなで悲しみを噛みしめるという状態は癒しになるだろう。
人が死んだ時に限らず社会的に負の感情が許されている状態というのは、昔は宗教的儀式として日常に組み込まれていたんじゃないだろうか。
キャンパスでは常に「祭り」の空気であり、「喪」の空気は追いやられている。
私はどちらかというと無宗教なんだけど、宗教的な空気、「喪」の空気というものが日本ではあまりにも邪険にされてるんじゃないのと思うんです。
反動で「千の風になって」なんかが流行ったりしてるけど、あれをお店で流すのは勘弁して欲しい。
一気に空気が変わってびっくりする。
それからカタルシスという感覚が以前は理解できなかったけど、今はすごく腑に落ちるんだよね。
人が死んだり悲しんだり苦しんだりすることのどこに快があるんだと思ってたけど、つらい経験がなかったり鈍感だったり、もしくは自分のつらさをごまかしているときはカタルシス的なものを受けつけないんだろう。
つらい経験がない、または鈍感で心がタフな人に一緒に苦しめ〜と引きずりおろしたりなんで苦しくないわけ?と逆ギレしたくなるときもあるけど、そんな権利は私にはない。
しかし「喪」の空気だってつらい人、つらさをごまかしている人のために許されていてもいいじゃないの。
モリッシーとかThe Smithsとか流行るのが可能なイギリスが羨ましかったりして。(日本でも80年代あたりまでは「喪」の空気が感じられて羨ましい。)
レンタルしてふーんとあまり引っかからなかったが、日本語訳見ないで聞くなんてアホたれですね自分。
また借りてこよう。
つらさが必死で隠蔽されてゆく感じがどうにも怖い。
いま、やばいぜ日本。
憂国憂国。
結局は先ほどの「私の苦しみはもっと普遍的なもの」であって欲しいということではあるんだけど、憂国だの国が悪いだのでスッキリ自己完結思考放棄はしたくない。
もっと個人的なことに還元してゆかなくては。
私が「喪」な気分を発信することで少しでも「喪」の空気が広がればいいな。
それぐらいしかできない。
無力無力。
キリスト教の救いはいずこ
テーマごとにまとまったことを書けそうもないので、“今日思ったこと・考えたこと”というふうにした方がアップしやすいな。
もーほんとお手上げ状態の走り書きがアップされずに溜まるいっぽうです。
今日は福永武彦『草の花』を読みながら、あ、またかよっと思ったんでキーボードを打つことに。
読書をするようになってから読む本読む本キリスト教にぶつかる。
そういった本に共感する私もまたキリスト教について考えるべきなのだろうとキリスト教の講義をとってみたもののどこかとらえどころがない。
講義を受け持っている牧師には自分の信仰を必死に論理武装しているような印象を受けた。
本当の信仰を持つのならいちいちこちらの疑惑を先読みして必死に納得させようなんてしないと思う。
その人の不安定で一貫性のない信仰が講義ににじみ出ていた。
そういう過敏な先読みにや必死さのせいで生徒との距離は遠ざかっていったような気がした。
私はこの講義、イライラしたり頭が痛くなったりするので後期は取り消すことにした。
そもそも聖書っていくらでも解釈をこじつけることができる。
悪い方に利用しようと思えばいくらでもできるし、実際に歴史を振り返ればいくらでも出てくるでしょう。
今となっては非科学的で間違っている部分だってある。
そういうところを客観視しないでまたさらに解釈でねじ伏せているのがなぁ。
キリスト教が同性愛を認めないというのはもう仕方のない事実でごまかしようがないよ。
私はキリスト教の良い部分を知りたかったのに、牧師の必死に正当化してキリスト教にすがろうとしている姿が焼きついてしまった。
キリスト教の中枢をなす良い部分って、救済とか自己犠牲だろうか。
この自己犠牲というのが私の中では混乱している部分で、自己犠牲って自分のためにすることなのか他人のためになのかよくわからない。
例えば弱い人を救うという行為。
自己犠牲が最終目的ならば、救われるだけでなく誰かを救わなければならない。
救われた弱い人は救われただけでは最終目標を達成できないのだからさらに弱い人を探す。
チャリティー番組でもそうだけど救う救われるの上下関係ができてしまう。
弱い人だって救われるだけじゃなくて、誰かを救うことに満足感を得るんじゃないか。
救われれば救われるほど惨めな気分になりはしないか、救いの手を振りほどきたくはならないか、チャリティー番組に出てくる弱者を見ていると心配になる。
(あと、とにかくがんばるのがいいというのも)
弱者を救うのが好きな人は救われる側のこういった感情を無視していないか。
やはり強い人ほど誰かを救いやすく、弱い人ほど誰かに救われやすい。
誰かを救うという満足感は平等に配分されない。
自己犠牲が究極のところまで行くと、誰かのために死ぬ、しかも義務感を全く感じずに自ら進んで、ということになる。
自己犠牲しなくちゃならないよといっているキリスト教を信仰していない方が本物っぽい。
あと誰にも知られずというのも必要か。
そこまで極めようとすると何かのためというより自己犠牲愛の証明って感じだ。
何かを愛するという状態は幸福感に溢れている。
それだけで見返りはいらない。
私は愛ってそういうものだと思っている。
それが自己犠牲愛にまでいかなければならないのか。
そもそも愛は行為なのか。
無理やり何かを愛するということは可能なのか。
私は何かを愛せるというだけで自分は救われると思うのだけど。
今は何かを愛するという幸福感を久しく味わっていなくて、愛そうとしたってできるもんじゃないから困っている。
愛せよ、と言われたって困る。
ありえない攻撃&友人が怖い
面識の無い人が勝手に私の部屋を見て女の部屋じゃないと言ったそうよ。
面識の無い人が私の容姿を「ありえない」と言ったそうよ。
どちらも男性の発言。
この先関わる予定のない私にまで自分の女・妻にする資格を持っているかどうかの評価を下す身勝手さ。
これは何も否定だけじゃなく、美人を持ち上げまくるのだってそう。
み○もんたとか島田○介とか見てるとイラッとする。
なに勝手にあたしを自分の女・妻する想像してんだおっさん!
あんたに褒められてもうれしくねーよ。
営業スマイルに決まってんだろ!
というのが持ち上げられた美女の本音じゃないかしら。
美人じゃないからわかんないけどさ。
私だったらおっさんじゃなくてイケメン(笑)でもそういう態度はイラッとくる。
別に男性だけじゃなく、(自分にとって)“ありえない”という言葉でその人を全否定しようとするのは気持ちが悪い。
「マジありえないんだけど〜」という女の子のノリや「こういう女ありえないわ〜」と言うのを聞くとげんなりしてくる。
しかも話している相手にも(自分にとっての)“ありえない”の同調を強制している。
それって(自分にとって)でしかないんだよっ!
括弧に気付きなさいよ!
自分の見えている世界が他人と一緒だと勝手に思い込んでいる人を見つけると、あ〜あんたは幸せだよねという皮肉な思考でいっぱいになってしまう。
今まで他人と食い違ったり乖離していく感覚を経験したことないのは幸運だ。
でも(というかだからというか)人の期待を裏切るのが気持ちいい。
ありえないとか女じゃないとか言われて一方では良かった〜なんて思っている。
そういう人たちの期待の沿うのは癪だもの。
ザマミロとか思っちゃう。
まあ積極的に期待させておいて裏切ろうというのはめんどくさいからしないんだけども。
人の期待に沿っているのが怖くなって本能的に逃げて、結果的に裏切ってしまうというのはあるなー。
これがちょっと厄介で、見て見ぬフリしている友人の問題があったりする。
ある人に親友といわれて怖くなってしまった。
親友と呼べるほどその人に心の内を明かしていないからまるで今まで騙してきたような罪悪感があった。
親友だからこれからもっとお互いよく知り合いましょうというのも怖いし面倒。
このまま表面だけ楽しさを装って、話を合わせてって言うのも疲れるだけだし相手への裏切りだと思う。
そんな関係は体に毒だ。
この人と分かり合えるようになるのは大変だろうなーと思う。
差別的だし、ありえない攻撃してくるし。
腐女子なのに差別的ってどういうことよ。
ホモキモい。ロリコンありえない。オタクキモい。あの服ありえない。
わたしは空気を読んでこれらに同調するのだけれど、あなたの知らぬところでわたし針のムシロなんです。
私は腐女子であることも含めて差別される側という意識が強いから、私じゃない誰かを差別しているとしても自分のことのように傷ついてしまう。
こういうのは疲れる。
毒が回る。
いちいちこういう壁を乗り越えようとするほどやる気もパワーもない。
なんでリスクを負ってまで自分の変態性を説明しなきゃならんのよ。
セクシュアリティーだのジェンダーだの相手が性的な話題避けてるのに切り出すなんて勇気ない。
なんで私ばかりがそんな辱めを受けなけりゃならんのだ。
いーよなノーマルな人間は。平然と存在できて。
相手にきっぱり嫌いだと言うのもめんどくさい。
嫌うほどの、憎むほどのパワーがない。
嫌いというよりめんどくさい。
座右の銘にしてもいいくらいめんどくさいは私の体に染み付いている。
音信不通になっていく過程では罪悪感を感じていたんだけど、だんだん麻痺してきた。
罪悪感からまた何もなかったかのように付き合うのか?
それで相手のためを思ってとか言うのか?
おまえただのお付き合いじゃなくて相手は“親友”なんだぞ。
おまえは悪者になりたくないだけだろ。
相手の強い感情に対処する自信がないからだろ。
それはエゴだ。
当初は罪悪感に苛まれていた。
メールがくる度、電話がくる度。
ああ出れなくてごめんなさい、あまつさえそれを不愉快だとか思ってしまってごめんなさい、と。
最近は長いこと音信不通で、罪悪感を感じないことにもやもやしている状態。
音信不通でちょっとほっとしてしまっている私がいる。
私は冷血動物のイグアナなんだ――なんてね。
秋葉原だの乙女ロードだの新宿二丁目だの“聖地”ができるのがよくわかる。
そこではわざわざ自分の変態性を説明しなくていいんだからねぇ。
心地よい暗黙の了解がそこにはあるわけです。
あーひとりで乙女ロードに行って来ようかな。
なんかこう、空気を吸いに。
家族ごっこイベント
夏休みに入りました。
で、半強制的に家族旅行に行ってきました。
ほぼ崩壊している私の家族には誕生日や母の日に集まったりという家族ごっこイベントがある。
今回のような旅行もそのひとつ。
別に家族イベントが気恥ずかしいから“家族ごっこ”と言っているわけじゃなくって、全員無理しているか不満を感じているか両方かで、とても自然に集まりたくて集まっただなんて言えないから。
あ、あと私と母のみが同居しているバラバラな家族で、別居の父、既婚の姉といった構成。
今回は私と両親が参加。姉は不参加です。
私の父はいつも勝手に旅館の予約をする。
そしていつも私はやる気のない表情と声で答える。
「え〜いいよそんなの」
「う〜ん。お金がもったいないし」
でもこんなぼんやりした否定では相手に届かない。
私のぼんやりしたやる気のなさはデフォなのでなおさらインパクトがない。
こうしていつも流されて家族ごっこイベントに参加してしまう。
自分の声が小さいと感じたり、何を言ってもしょうがないという諦めが私の性格の一部になってしまったり、口数が少ない、しゃべるのが面倒なんてのもこのディスコミュニケーションの繰り返しのせいじゃないかといま書いてて思った。
父は父なりに私を可愛がっているのだろうけど何か気持ち悪さを感じてしまう。
無理して高いものを買い与える父。
高い物を食べさせようとはりきる父。
いまは別居中だけど家を買って三人で住もうとした父。
押し付けがましいサービス。
押し付けがましい勝手な愛。
それをやって勝手に満足しているように見える父。
私や今の家族の関係の現状を素通りしている。
私でないものを見ているような気がする。
今の状態で三人で住もうなんて鼻で笑ってしまう。
愛が気持ち悪い。
いや違う。
愛と呼んでしまうのが気持ち悪いんだ。
父は父親という社会的地位を与える私、養っているという満足感を与える私を愛しただけ。
私ではなく娘のゴーストを見ていたのだろう。
母だって私を勉強マシンにして満足感を得ていた。
世間一般では愛されない子供なんて悲劇的だけど、私にとっては「これは愛じゃない」と言えたことがとてもいいことのような気がするんだ。
そもそも夫婦の間に愛(なんてなくていいけど)も信頼関係もない。
善か悪か、勝ちか負けかの世界。
互いに互いをいらだたせる父と母。
互いにけなし合う父と母。
私を味方につけようと引っ張り合うふたり。
二人の不満を聞かされうんざりする。
なんでこの二人が結婚したのかわからない。
無言で別居することになり、今度は三人で住む家を買う計画も何も話し合わずに進めるという稚拙さにもうんざりする。
家族ってこんなものだと思ってた。
家庭内暴力も近親相姦もないし、ちょっと夫婦が仲悪いのなんてよくあることだし不幸だなんて思ったことはなかった。
だけど、もういいかな。
アダルトチルドレンとかジェンダーとか勉強したらがんばって家族を維持する方がよくない気がしてきた。
こんなの続けても害あり利なしだもん。
よくあることでも悪いものは悪い。
子はかすがい。
あまりいい意味に取れない。
嫌なら離れりゃいいのに子供がいるからそうできない、ということじゃないの。
じゃあかすがいが壊れたら・・・。
リセットボタンを押すのは私なんだと思う。
起爆スイッチかもしれない。
何が起こるかわからなくてわくわくしてしまう。
新しい光が見えるのか。
案外そのままなのか。
焼け野原が残るのか。
私は自分に害の及ばないないところで二次災害のようなパニックが起きることを期待している。
想像すると腹の底でマグマの泡がぐつぐつとはじけるような黒い笑いが込み上げてくる。
でも死者や重い後遺症が残るのは後味悪い。
ずっと縛り続けてきたものを壊すってどんな感じがするのだろう。
私にスイッチは押せるのだろうか。
後日談。
また父が旅行に行くとか言っている。
この長時間耐久レース状態のどこに楽しさを見出しているのか。。。
次回こそは断るぞー。






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