セキララブログ
腐女子の赤裸々な雑記。イラスト描いたり萌えたり落ち込んでみたりと色々やってます。ブログを通じていろんな人と交流したいなあ。古い記事でも一言コメントしてもらえるとうれしいです。
ありえない攻撃&友人が怖い
面識の無い人が勝手に私の部屋を見て女の部屋じゃないと言ったそうよ。
面識の無い人が私の容姿を「ありえない」と言ったそうよ。
どちらも男性の発言。
この先関わる予定のない私にまで自分の女・妻にする資格を持っているかどうかの評価を下す身勝手さ。
これは何も否定だけじゃなく、美人を持ち上げまくるのだってそう。
み○もんたとか島田○介とか見てるとイラッとする。
なに勝手にあたしを自分の女・妻する想像してんだおっさん!
あんたに褒められてもうれしくねーよ。
営業スマイルに決まってんだろ!
というのが持ち上げられた美女の本音じゃないかしら。
美人じゃないからわかんないけどさ。
私だったらおっさんじゃなくてイケメン(笑)でもそういう態度はイラッとくる。
別に男性だけじゃなく、(自分にとって)“ありえない”という言葉でその人を全否定しようとするのは気持ちが悪い。
「マジありえないんだけど〜」という女の子のノリや「こういう女ありえないわ〜」と言うのを聞くとげんなりしてくる。
しかも話している相手にも(自分にとっての)“ありえない”の同調を強制している。
それって(自分にとって)でしかないんだよっ!
括弧に気付きなさいよ!
自分の見えている世界が他人と一緒だと勝手に思い込んでいる人を見つけると、あ〜あんたは幸せだよねという皮肉な思考でいっぱいになってしまう。
今まで他人と食い違ったり乖離していく感覚を経験したことないのは幸運だ。
でも(というかだからというか)人の期待を裏切るのが気持ちいい。
ありえないとか女じゃないとか言われて一方では良かった〜なんて思っている。
そういう人たちの期待の沿うのは癪だもの。
ザマミロとか思っちゃう。
まあ積極的に期待させておいて裏切ろうというのはめんどくさいからしないんだけども。
人の期待に沿っているのが怖くなって本能的に逃げて、結果的に裏切ってしまうというのはあるなー。
これがちょっと厄介で、見て見ぬフリしている友人の問題があったりする。
ある人に親友といわれて怖くなってしまった。
親友と呼べるほどその人に心の内を明かしていないからまるで今まで騙してきたような罪悪感があった。
親友だからこれからもっとお互いよく知り合いましょうというのも怖いし面倒。
このまま表面だけ楽しさを装って、話を合わせてって言うのも疲れるだけだし相手への裏切りだと思う。
そんな関係は体に毒だ。
この人と分かり合えるようになるのは大変だろうなーと思う。
差別的だし、ありえない攻撃してくるし。
腐女子なのに差別的ってどういうことよ。
ホモキモい。ロリコンありえない。オタクキモい。あの服ありえない。
わたしは空気を読んでこれらに同調するのだけれど、あなたの知らぬところでわたし針のムシロなんです。
私は腐女子であることも含めて差別される側という意識が強いから、私じゃない誰かを差別しているとしても自分のことのように傷ついてしまう。
こういうのは疲れる。
毒が回る。
いちいちこういう壁を乗り越えようとするほどやる気もパワーもない。
なんでリスクを負ってまで自分の変態性を説明しなきゃならんのよ。
セクシュアリティーだのジェンダーだの相手が性的な話題避けてるのに切り出すなんて勇気ない。
なんで私ばかりがそんな辱めを受けなけりゃならんのだ。
いーよなノーマルな人間は。平然と存在できて。
相手にきっぱり嫌いだと言うのもめんどくさい。
嫌うほどの、憎むほどのパワーがない。
嫌いというよりめんどくさい。
座右の銘にしてもいいくらいめんどくさいは私の体に染み付いている。
音信不通になっていく過程では罪悪感を感じていたんだけど、だんだん麻痺してきた。
罪悪感からまた何もなかったかのように付き合うのか?
それで相手のためを思ってとか言うのか?
おまえただのお付き合いじゃなくて相手は“親友”なんだぞ。
おまえは悪者になりたくないだけだろ。
相手の強い感情に対処する自信がないからだろ。
それはエゴだ。
当初は罪悪感に苛まれていた。
メールがくる度、電話がくる度。
ああ出れなくてごめんなさい、あまつさえそれを不愉快だとか思ってしまってごめんなさい、と。
最近は長いこと音信不通で、罪悪感を感じないことにもやもやしている状態。
音信不通でちょっとほっとしてしまっている私がいる。
私は冷血動物のイグアナなんだ――なんてね。
秋葉原だの乙女ロードだの新宿二丁目だの“聖地”ができるのがよくわかる。
そこではわざわざ自分の変態性を説明しなくていいんだからねぇ。
心地よい暗黙の了解がそこにはあるわけです。
あーひとりで乙女ロードに行って来ようかな。
なんかこう、空気を吸いに。
家族ごっこイベント
夏休みに入りました。
で、半強制的に家族旅行に行ってきました。
ほぼ崩壊している私の家族には誕生日や母の日に集まったりという家族ごっこイベントがある。
今回のような旅行もそのひとつ。
別に家族イベントが気恥ずかしいから“家族ごっこ”と言っているわけじゃなくって、全員無理しているか不満を感じているか両方かで、とても自然に集まりたくて集まっただなんて言えないから。
あ、あと私と母のみが同居しているバラバラな家族で、別居の父、既婚の姉といった構成。
今回は私と両親が参加。姉は不参加です。
私の父はいつも勝手に旅館の予約をする。
そしていつも私はやる気のない表情と声で答える。
「え〜いいよそんなの」
「う〜ん。お金がもったいないし」
でもこんなぼんやりした否定では相手に届かない。
私のぼんやりしたやる気のなさはデフォなのでなおさらインパクトがない。
こうしていつも流されて家族ごっこイベントに参加してしまう。
自分の声が小さいと感じたり、何を言ってもしょうがないという諦めが私の性格の一部になってしまったり、口数が少ない、しゃべるのが面倒なんてのもこのディスコミュニケーションの繰り返しのせいじゃないかといま書いてて思った。
父は父なりに私を可愛がっているのだろうけど何か気持ち悪さを感じてしまう。
無理して高いものを買い与える父。
高い物を食べさせようとはりきる父。
いまは別居中だけど家を買って三人で住もうとした父。
押し付けがましいサービス。
押し付けがましい勝手な愛。
それをやって勝手に満足しているように見える父。
私や今の家族の関係の現状を素通りしている。
私でないものを見ているような気がする。
今の状態で三人で住もうなんて鼻で笑ってしまう。
愛が気持ち悪い。
いや違う。
愛と呼んでしまうのが気持ち悪いんだ。
父は父親という社会的地位を与える私、養っているという満足感を与える私を愛しただけ。
私ではなく娘のゴーストを見ていたのだろう。
母だって私を勉強マシンにして満足感を得ていた。
世間一般では愛されない子供なんて悲劇的だけど、私にとっては「これは愛じゃない」と言えたことがとてもいいことのような気がするんだ。
そもそも夫婦の間に愛(なんてなくていいけど)も信頼関係もない。
善か悪か、勝ちか負けかの世界。
互いに互いをいらだたせる父と母。
互いにけなし合う父と母。
私を味方につけようと引っ張り合うふたり。
二人の不満を聞かされうんざりする。
なんでこの二人が結婚したのかわからない。
無言で別居することになり、今度は三人で住む家を買う計画も何も話し合わずに進めるという稚拙さにもうんざりする。
家族ってこんなものだと思ってた。
家庭内暴力も近親相姦もないし、ちょっと夫婦が仲悪いのなんてよくあることだし不幸だなんて思ったことはなかった。
だけど、もういいかな。
アダルトチルドレンとかジェンダーとか勉強したらがんばって家族を維持する方がよくない気がしてきた。
こんなの続けても害あり利なしだもん。
よくあることでも悪いものは悪い。
子はかすがい。
あまりいい意味に取れない。
嫌なら離れりゃいいのに子供がいるからそうできない、ということじゃないの。
じゃあかすがいが壊れたら・・・。
リセットボタンを押すのは私なんだと思う。
起爆スイッチかもしれない。
何が起こるかわからなくてわくわくしてしまう。
新しい光が見えるのか。
案外そのままなのか。
焼け野原が残るのか。
私は自分に害の及ばないないところで二次災害のようなパニックが起きることを期待している。
想像すると腹の底でマグマの泡がぐつぐつとはじけるような黒い笑いが込み上げてくる。
でも死者や重い後遺症が残るのは後味悪い。
ずっと縛り続けてきたものを壊すってどんな感じがするのだろう。
私にスイッチは押せるのだろうか。
後日談。
また父が旅行に行くとか言っている。
この長時間耐久レース状態のどこに楽しさを見出しているのか。。。
次回こそは断るぞー。
秋葉原通り魔事件のこと
事件発生からもう1ヶ月も経ってしまった。
この事件には思うところがあって何週間かうんうん唸っていた。
知らずには、考えずにはいられなかった。
書くには書いたけどアップするタイミングを逃してしまった。
このままお蔵入りか…と半分諦めていた。
偉い人が的確に分析してたりするならいっかーと思ったし。
でも数日前あるテレビ番組でネットが悪いとか言われてて、黙っていられない気分になった。
ネットに救われている人がここに!
そういうわけでタイムラグはありますが以下アップしました。
なんと今日がちょうど事件後1ヵ月らしい。
秋葉原無差別殺人事件の犯人の掲示板の書き込みを見た。
ニュースサイトはだけでは犯人の内面まで見ることができない。
見せないと言ったほうがいいか。
秋葉原という土地柄から犯人はオタクなのかと無意識に思っていた。
オタクの不気味な殺人事件というステレオタイプのイメージを私の無意識に植え付けられていることを知る。
いかんいかん、テレビに毒されてる。洗脳されてる。
この人、すごく社会的な人なんだ。
社会に受け入れられているかどうかではなくて、社会という鏡に自分を映すことができる、見ることができる人。
そういう意味ですごく社会的。
ただ、社会の鏡に映った自分イコール自分そのもの、となってしまったらつらくてやってけないんじゃないかな。
社会に受け入れられていてそれを幸福だと言う人でも、社会の鏡像の自分しか見えていない人に対して「ほんとにそれが幸福なの?」と囁きたくなる。
いじわるで言うんじゃなくって、いつかそれが破綻してしまいそうで怖いから。
彼女がいない、不細工だ、それゆえ性格も歪んだ。
全体としてこれが加藤容疑者の掲示板で訴えた苦しみであった。
加藤容疑者は2ちゃんねらーだったみたい。
2ちゃんのオフ会に行ったらしいし、文体もそれっぽい。
「モテない、ブスは負け組み」みたいな被害意識は2ちゃん周辺でよく見られる。
2ちゃんねるって価値観がとても固定されていて息苦しい。
こんなにたくさんの人が訪れながら自由で多様な世界は広がっていない。
匿名で現実の立場にとらわれないで発言できるのに。
匿名だからというのもあるか。
匿名だから人格、個人は失われて大衆の、集合体の意見になってしまうとか。
おそらく長年2ちゃんねるに妙な気持ち悪さを感じていたのはこれなんだ。
意識的にそうしているのならいいけど、誰かたちの意見に乗っ取られているのにそれを自分の意見だと思い込んでいないだろうか。
「ほんとにそれはあなたが考えたの?」と問いたくなる。
なんかみんな機械になってしまったみたいで怖い。
加藤容疑者も2ちゃんねるの価値観を取り込みすぎてしまったのだろう。
それに彼女がいる状態に期待しすぎていないかな。
もうまるで信仰のよう。
女の側から見ると自分のステイタスのために女を利用しているように感じてしまう
「ねえ等身大の私を見てよっ」という気分になる。
不幸なことにこの人の周りにはこの人に必要とされる情報がまわってこない。
やっぱりネットは広いようで狭かったりするのかも。
若い人の周りに人生経験豊富なご老人や中高年は集まらない。
童貞・処女、彼女なし・彼氏なしは未熟だなんてことを考えてこだわってしまうのは若者の狭い世界ばかりじゃないのかな。
みんなアドバイスが彼女を作るにはどうしたらいいかとか、あなたを愛してくれる人にいつか出会えるよとかなの。
ここに童貞処女のご老人とかいたら面白い。
いないかもしれないけど、いるなら是非意見を伺いたいなあ。
私は未開の地をこれから歩むのかと思うと心細いもの。
女で独身のご老人とかいたらとても心強い。
掲示板でウェルカムしておきながら、同情を誘いながら人のコメントをどんどん拒んでゆく。
こうやって差異化して自分を保っている人って大丈夫だと思ってたんだけど加藤容疑者は大丈夫じゃなかった。
人に認められたいという欲求が強くって、でも無理だと思ってて、なんとか差異化で自我を保とうとするけどさらに孤独を感じてっていう泥沼のループ。
しかもネットでも辺境の携帯掲示板。
パソコンなかったのだろうか。
私は運よくパソコンがあり、大学生であり、自由な時間があった。
ふらふらと放浪し、自分に必要な情報を得るルート、方法のようなものを得ることができた。(情報取捨の勘といったほうがいいかも)
ブログを書いたりすることによって自分の微細な感情や違和感にも目を向けることができた。
自分の苦しみは誰かの苦しみでもあって、私が苦しむことには意味があるかもしれない、と思えたのは大きい。
意味のない苦しみ、あってはならない苦しみほど苦しいものはないもの。
どんどん流れてゆく短い文章しか書けない掲示板では自分の苦しみを大事にすることはできない。
もしこういう整った環境ではなく、自分の苦しみを愛することができなかったらどうなっていたかわからない。
加藤容疑者も自分と同じような苦しみを探しに行ったり、自分を都合よく肯定してくれるようなものを探しに行ったりできたなら・・・。
誰でもよかったとは言っているけど、無意識にしろ秋葉原を選んだことには意味があると思う。
オタクへの恨み。
もしくはオタクになりきれなかった恨み。
ハードなオタクになれば社会の鏡に映った自分はどうでもいい。
趣味に熱中すれば楽しく一生を過ごせるんだから。
私も羨ましいもの。活動的で熱中しているオタク。
人を殺さない理由って、安心して生活をするために人を殺す権利を放棄して殺されない権利を得るという設定されたタブーしかないんだと思う。
もとから備わっている道徳なんてない。
社会契約論だっけ?
大きな利益があるから殺す権利を放棄する。
命の大切さを教育しなきゃとかキモいこと言わないで欲しい。
今の子供たちはドライで頭がいいからきれい事だと見抜いてしまう。
人を殺すというタブーを破るということはどういうことだろう。
利益が利益でなくなってしまうから。
殺される心配のない安心できる生活ではなくなってしまうから。
そうなったら殺そうと思う人は殺す。
タブーを守ることで得るものがなくなったと思ったら、その人を止めるものは何もない。
タブーを破ると同時に社会に参加する者全員に自分を殺す権利を還元することになる。
人に殺されるという恐怖と同等のものを加藤容疑者は感じたんだろう。
彼は唯一勝ち取った人を殺す権利を行使した。
でもその先には何もない。
どうせなら政治家暗殺でも企ててくれた方が何か変化があったのかもしれない。
社会への恨みつらみが渦巻く世の中なのに、加藤容疑者もそうだったのになんで最近日本で暗殺とかないんでしょうね。
変化が想像できないほど政府に抑圧されていると言えるのかもしれない。
あと殺人とか暴力に向かうのに性差って明らかにある。
女の私にはわかりずらい部分も多いのかもしれません。
や〜んユージーン男の人のことぜんぜんわかんない〜。
半分本気でそう思う。
でもわかんない〜のカマトトが武器にならないし、恐怖症が悪化するのでわからないままにしたくない。
私と男性の違いって社会的なものが大きいよね、根本はそんなに違ってないよね。
同時に女性の輪の中にも馴染めない私は根本はそんなに違ってないよねと自分に言い聞かせながら暮らしていて…。
社会的な違いって私が思ってるより重要らしいという壁にぶつかった。
アイタタ、根本が云々なんて言ってられないのだ。
これだからひきこもりは。
社会的な人間って私から見ると人間に見えないんです。
高校の時、制服だったのでみんな同じ格好なのにひとりひとり違って見えた。
名前は覚えられなかったけどそれぞれ違う人間だってことはわかった。
それが大学に入ってからどの人もどこかで見た、あるパターンの一つに見えてしまって。
個人として認識できず“大学生”とか“若者”とかひとまとめになっちゃう。
これって大学生が社会性を身に着けはじめたのと無関係ではないでしょう。
私が変人になっていったのではない。
みんなが変わったのだ。
なーんて言ったらマジで変人扱いだろうな。
社会的にこの人はこういう人ねって認識され、社会的にこういう話題にはこう返すって決まっていて、社会的にこの人はこういうのが好きだって決まっていて…。
あーやだやだ生きた心地しない。
型にはまるのが大人になることなら大人になんかなるかっ。
以前はこういうセリフ軽蔑してたのになぁ。
わがままだなとか、そのぐらいちょっと我慢すればいいじゃんって。
もっとクールにすんなりかっこよく大人になるつもりだったのに子供化している。
高校生辺りまで私の大人になる道ってもうなんか武士道って感じだったな。
女に生まれたからには女をやらなきゃ大人になれないと気づいたのはつい最近で。
武士道も貫くのもつらくなってきたし、そうかと言って急に女として振舞えない。
なにさせるんじゃ〜と漢らしくちゃぶ台返ししたくなる。
武士にも女にもなれないので子供返りしている。
それがまた子供の自分を結構好きで困る。
これを基底に置きながら生活できたらいいんだけどな。
どんどん話が膨らんでしまいましたが(というか自分語り)、男性で社会の鏡を重要視する加藤容疑者と女性で社会の鏡を無視している織日屋とで好対照かなー…というのは無理がありました。ハイ。
どっちかというと社会性を身につけまくった自分をフツーだと疑わない人の方が彼に同情できるんだと思う。
彼の立場になって身悶えてみるといい。
機械人間のままで狂わず生きているというのは運がよかっただけなんだ。
男の人の方が自分に甘えを許すのが(抵抗があって)ヘただ、というの付け足しで。
ルイス・キャロルと高畠華宵 東西ロリショタ戦線

『ヴィクトリア朝のアリスたち ルイス・キャロル写真集』と『別冊太陽 高畠華宵 美少年・美少女幻影』を大学図書館で借りる。
西のロリータ、東の美少年(美少女)、変態の私。
気付いたらすごい取り合わせでカウンターへ向かっていた。
だってまじめぶってまじめな本借りても読まないんだもの。
すてきな絵と写真がたくさんですてき。
課題で写真を探していたともあるけど、偶然目に入っちゃったんだなーアリスという文字が。
ルイス・キャロルが少女の写真にご執着していたのは知っていたので本を手に取らざるを得なかったのだ。
で、開く。
わ、わかりますぞーー。
人に馴れぬ高貴な野生の生き物のような少女達がそこに。
ルイス・キャロルの求めたものって無表情の子供のあどけなさでもなく、ニコニコとした無邪気な子供でもないのだ。
私が普通の子供好きの大人とは違った視点で子供が好きなのだとは自覚しているけど、やっぱロリコン・ショタコンなんだろうか。
別に子供とすれ違うたびじろじろ品定めするわけではない。
身長が違いすぎて目に入らないくらいだ。
でも本当に時々視界に飛び込んでくることがある。
ヨーロッパや中東の子供の顔立ちって日本人の子供と比べると異質で、子供の時点で一度完成してしまっている。
そういえばこんなことがあった。
目の手術の帰り、目は腫れてひどい顔だし、痛くて目は開かないし最悪の気分で電車に乗った。
気が付くと反対側の席に金髪の白人の少年と母親が座っていて、その少年がニコニコと私のことを見ている。
こんなひどい顔の私に微笑みかけてくれるなんてっ、ひどい気分だったから妙に感動してしまった。
その少年の容貌と相まって彼が天使に見えた(笑)
(まあ私のひどい顔がおもしろかっただけなのかもしれないけど、いやな感じが全くしなかったの)
しばらくすると眠くなったのか母親のひざにしなだれかかっているのが私の狭い視界に入った。
あ、寝たわーと思ってさらにしばらくしてからふと目をやると。
ひー、私のことを見てるっ。
私と目が合ってもジーッと見てるっ。
あわてて目を逸らす。
そのポーズといい上目遣いの表情といい彼の容貌といい車内の妙な静けさといい、完璧すぎて日常空間とは異なる世界に一瞬入ってしまったような、聖母子像の世界に迷い込んだような感じだった。
いや、神が汚らわしいわたくしめを見つめておられる、おお!みたいな恐怖があった。
もしかして私の変態性を見透かされている…?なんて。
そのときは小悪魔チックでもあった。
何かは知らんがコイツ何かしら分かってるな、という雰囲気があった。
単に変態である私の解釈だからとも言えるけど、西洋・中東圏の子供たちは神々しさとか凄みとかがあったりする。
ルイス・キャロルの写真でレポート展開できるかな、できたらいい。
まじめじゃないからよくないとか思ってたけど、最近学問やら研究やらにはリビドーが必要だなっと思う。
それがいかに低俗だろうと変態だろうと自分の根源に関わるから追及する価値がある。
でもでも発表するとか、卒論で教師と密接だと自分の深いところを侵略されるようでいやだ。
うう、ジレンマ。
腐女子だの、やおいだの、美少女だの、美少年だの、倒錯だのならちっとは勉強に身が入りそうなものだけど。
つぎ。高畠華宵。
スランプ過ぎてペンを握らなくなってしまった。
インスピレーションが欲しくて美術の棚をうろうろしていてタイトルが目に止まった。
美少年・美少女で幻影ときたら手に取らざるを得ない。(またか)
で、開く。
うわーーこういうの好きだー。
聖と俗の狭間。
健全と不健全の狭間。
西洋と東洋の狭間。
こういう胡散臭さ大好きだ。
高橋葉介とか、インド映画とか、浮世絵新聞とかにも同質のものを感じるなあ。
戸川純のゲルニカなんかも華宵の美人画から抜け出してきたみたいだ。
ペン画は山岸涼子っぽいというか矢を射っているミズラの武人はまんま毛人。
もっといけば少女椿とか四谷シモンとかになるんだろうな。
私はどうもこの二つは内臓がキューッと縮こまる感じがして苦手だったりする。
流血している破れた着物の若侍を庇って銃を撃つ青年とか。
衣服ぼろぼろでなぜか木に縛りつけられている少年とか。
えろす。
着物がめくれあがってたり、衣服の破れ目から肩や腋や膝が覗いていたり、少年の方がチラリズムが多い。
ふんどし一丁もある。
この人のリビドーは女性よりもむしろ少年に向いていたんじゃないかなーと勘ぐってしまう。
実際の指向はどうであれ。
私の中で美少年という言葉とぴったり一致するのはこういう美少年なんです。うんうん。
美少年という言葉が氾濫しすぎていていやになっていたとこだったのさ。
美少年は歌ったり踊ったりギャグやったりしちゃダメなんだ。
ラシャーヌはギャグやってもなぜか美少年のままだなー。
無表情だからかしら。
私の美少年の原型って天草四郎なのかもしれない。
なんで私は平成に生きながら古い方へ古い方へ行ってしまうんだろう。
![昭和美少年手帖[予定価格] (らんぷの本) 昭和美少年手帖[予定価格] (らんぷの本)](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51409Y41X1L._SL160_.jpg)
これを描いたのも高畠華宵なのかー。
テレビで見かけてすごい印象に残っているエロチックな桃太郎もこの人の絵なのかな。
気になる。
調べたら山本タカトという人だった。
絵の系統もちょっと違う。
残念ながら借りた本には載ってなかった。
しょうがないこの本買おうかな。
この人の描く美少年もっと見たいしー。
リアルな方に行けば安彦良和とかヤマジュンとかのむちむちした絵が好き。
(この二人を並べるのは私ぐらいじゃないか)
ロリショタなら吾妻ひでおとかなかむらたかしのような線が好き。
手塚治虫のロリショタもいい。
でもBLのいまどきの線ってよしながふみとかなんだよね。
ああいう絵はどうも苦手で萌えるどころか萎えてしまう。
高畠華宵系統の肉のせめぎ合う、でもしぐさや手の表現はたおやかでお耽美でエロースな絵柄、やおい方面で復興しないかなー。
あわよくば高橋葉介が男ふたりを描いてくれたらなんて思っている。
極端な話ガリガリかデブどっちなら萌えるか、と言われたらデブを選ぶ。
以前テレビで若い力士が乳首の話題で盛り上がって無邪気にじゃれ合っているのを見て、なんともいえない気持ちになった。
う、うお、これって萌えってやつなのかもしかして…と煩悶。
今までないないと思っていたアブノーマルな道。デブ専。
でも自分の新たな可能性を見つけてむしろ嬉しかったりして。
食わず嫌いは損だ。
じゃあノーマル男女恋愛小説も読んでみればいい。
うはーつまんなそー。
ってほらまた。
小松菜 第一回目間引き

こまつな〜。
ひらがなでかわいらしく表記してみた。
小松菜と漢字で書くと可愛げがないんだもの。
今日は双葉の間から本葉が覗いていたので成長を実感したけど、2日前の写メと比べると葉っぱが大きくなっているのがわかる。
あと今日は間引きしました。
間引き後の写真だけどまだもさもさしている。
間引きの加減がわからない。
間引いたやつも食べれるらしいので、今日の夕食にと思ったら今日は外食したので明日の楽しみに。
一本味見したら想像以上においしかった。
味が詰まっているというか、小さいのに強く味を主張してきた。
間引くのかわいそうとか思ったけど、こんなに私の舌を楽しませるなら間引かれがいがあるよね、と花より団子で現金な織日屋。
どうやっていただこうかしら。
小松菜とわたし

小松菜を植えました。
なんで変換して最初に出るのが“飢えました”なんだっ。
鬱すぎるよこのパソコン。
家庭菜園やりたいと思い立ったのが冬で、種買いに行ったらそのとき蒔けるやつなくて冬って野菜育たないのか〜と妙に感心した。
そんで春になって気分が落ち着かず、今やっと余裕出てきたので草いじりをやることにした。
今日は種蒔いてから一週間ぐらいかな。
生活の実感が欲しいというのが一番の動機。
なんだか生活する、食べ物を手に入れるということにすごく遠回りしている気がして、そんなら作っちゃえばいいじゃんと考えた。
育てて、殺して、食らう。
この感覚が自分に必要な気がした。
生きてるぞという感覚というか。
さすがに動物でやるのは勇気がないし、スペースも費用もないので野菜で。
他にも適正テストで農業が割りと向いてると出たとか、死んだじいちゃんがベランダよく草いじりをしていた思い出とかも動機のひとつ。
適正テストで普通以上なのは研究と技術。
普通が情報処理、文芸、美術・デザイン・写真、農林漁業。
営業、販売、サービスは最低。
女子大生らしい就職先って自分に合わないのかも。
最近小学生の頃に死んだじいちゃんが懐かしい。
子供の頃は口数の少ないじいちゃんをあまり気に留めなかったのに。
母親似だと言われ続けて自分でもそうなんだと思ってたけど、いいや全然中身は違うって拒絶したら、私のやっかいな性格は誰から受け継いでいるのか気になった。
父方の私の生まれる前に亡くなったおじいさんとその草いじりじいちゃんが私の中で候補に上がっている。
父方のおじいさんは怒ったことのない、事の荒立つのをするりと回避するような人だったらしい。
なにしろ占い師がこの父方のおじいさんの生まれ変わりがユージーンだと言ったそうな。
半信半疑だけどおもしろい。
母方のじいちゃんは表に出たがらない、ベランダの草花が恋人のような人で、頭が良くて独学で色々勉強したらしい。
でもそれを表に出すとか、仕事に生かすとかはなかった。(土木関係)
私の掴みどころのなさとか、穏やかな性格とか、自閉性とかのエッセンスはこのふたりの爺さまから貰っているんじゃないかな。
単に私がおじいさん成分を持っているだけとも言えますが・・・。
もうちょっと長生きして欲しかったな。
じいちゃんの持っていた静かでやわらかい空気が今こそ欲しいよ。
小松菜からなんでこんなに話が広がるんだ。
話の筋を見失う天才だな君は。
小松菜観察日記はまたちょくちょくやりたいな。気が向けば。
そろそろ間引かないと。
平気なネガティブ人
人は人だし、とか。
劣っているが生きてちゃいけないってわけじゃない、とか。
こんな自分でも生きてていーじゃんって自分しか思ってなくてもオッケー、とか。
むしろそれが必須条件で他人の評価なんてのはプラスアルファ程度なんだ、とか。
それで最終的に死んじゃったとしてもしょーがねーや、私はそんなもんだったんだし、世の中もそんなレベルだったのさ、とか。
開き直りというか、超楽観というか。そういう転換があって前より気分が楽だ。
死んじゃってもしょうがない、なんて言うといきがっちゃってるみたいだけどすとんと頭の中に入ってぴったりと収まるような、妙な納得があった。
結婚しなくてはならない、子供を持たねばならない、夫の面倒を見て、70まで生きて子供に介護してもらう・・・。
時間軸で書いたけどようは長生きして子供に看取られるという幸福を手に入れるにはいっぱいやらなきゃいけないことがあるということです。
かなり長期的な計画だし、その幸福を手に入れるのって大変そうだしすごく贅沢じゃない?
なんといってもそんな人生最大の目標に子供を雁字搦めにするのってすごいわがままだ。
私はこれのために生きてきたんだから文句言わずに面倒見ろ、なんて押し付けることはできない。
私にとってはあまりこれを幸福だとは思われない。
遠くを見つめて今は苦しくてもいつかは・・・というふうにはがんばれない。
だから70まで生きなくていーや、人より短命でいーやと思うほうが気が楽なんです。
というかそう思わないと生きていられないような、気が狂っちゃうか、死んじゃうか、なにかに猛烈にしがみつくしか行き着くところがないような気がした。
70まで生きなくちゃならないなんて考えて、その重みで今一歩も動けないなんて馬鹿らしいじゃない。
70の幸福なんていらねー。
と、ここまでが前置きで。
こう開き直ってみるとネガティブな人が多いことに気づく。
みんな暗いぞ、暗い暗い。
彼らのそんな暗い呟きに引きずり込まれそうになる。
私のポジティビティーは私ひとり救うのでやっとなんだ、やめてくれっ。
まさか頼りがいのない私に何か助けを求めているとは思えないし、それなのに私に言うってのはそこまで困ってはないんだろう。
だからこそやめてくれと言いたくなってしまう。
毒だとは思っていないから平気で毒をばら撒く。
逆に私は猛毒だと思ったために表に出せなかった。
ほんとに困っててアドバイスが欲しいなら「死んじゃってもいーじゃん」というひとことをあなたにあげましょうということに・・・。
さすがにそれはひどいので「まあいいじゃない」とか「自分の好きにしたらいいじゃない」とかいつも煮え切らないことを言う。
そういう態度が人を苛立たせているのはわかっている。
せっかく求めてきたのに私に突き放されたと感じるだろうこともわかっている。
なんともしてあげられなくて可哀想ではある。
申し訳ない。
その一方で、そこまで開き直れないならそんなに困ってないんでしょ、と不幸自慢してしまいそう。
私にアドバイスしてくる人もそうで、今それをやらないと人生真っ逆さまみたいな言いかたをする。
なんでそんなに焦っているんだよ。
あなたはそうやって生きてこれたんでしょうが、私がそれをやったら死んでしまいそうなんだ。と言ってしまいたい。
もうっなんでこの人たちはこんなにネガティブなのに平気なのかしら。
私は平気じゃないんだからうつさないで頂戴ねっ。
と思えば
やっぱり私は冷たい人間なのか。
自分がよけりゃーいいのか。
と思う。
こういう自意識からなんとか元気になってきた今も人と距離を置きたい。
色々考えたり、感じたりして疲れてしまう。
私の開き直りはマイペースと言われるもとの性格のせいもある。
今まで人に受け入れられるように自分のこの性格を利用して笑いを取ったり。
そんな自分が嫌になり閉じ篭ってピリピリしたりした。
今やっともとのマイペースに戻ってきている。
ここが定住の地だとやっと気づいたような感覚です。
私をマイペースだと急かす人に私のペースを乱すなと言いたくなる。
私からすれば速い自分のほうのペースに合わせろ、という人だってマイペースなんだよ。
いまマイペースという言葉が重い。
他者から解放されているともいえるが、自分のペースでしか生きられない呪縛ともいえる。
もっと平均ペースだったら生きやすかったんだけどねえ。
タフでマイペースなポジティブ人が私の目標である。
それを達成してやっと人のことも考えられる。
今はまだ過敏なポジティブ人なのでこうやってアレルギー出ちゃって大変。
がんばれ自分。
『欲望の翼』 ごちゃメモ

『欲望の翼』を観る。
何か刺激的な映画が観たいなーできれば頭使わないヤツがいい、とレンタルビデオ屋でさんざ迷ってウォン・カーウァイの棚で立ち止まり、レスリー・チャンがでてるんならこれでいいやっと投げやりに借りる。
ほんとはホラーが観たかったんだけど選ぶ基準が全くわからず断念。
カタルシスでスッキリ。みたいな感覚を味わいたかったんだよう。
下調べをしないとかなりビデオ屋でたむろしてしまう。
やはり頭を使いたくないのでいいかげんメモ。
やはりレスリーは色っぽい。
これはレスリー・チャンの持ち味なのか、監督の視線なのか。
私は後者の影響が大きいかなと思う。
だってビョルン・アンドレセンは映画の中では物凄い色気だったのに、ネットで拾った写真では凄みのない美少年だった。
撮る側の意識って映像に色濃く残る。
香港映画はまだまだ未開拓なのでなんとも言えないけど、男って色っぽいよね〜そそるよね〜という視点で撮れる監督がいるって香港は進んでいるなぁと感心してしまう。
日本のタレントはイケメンだのかっこいい男だのはいるんだけど、私基準だと色っぽい人ってのがいない。
そうねイケメンだねぇ、おしゃれだねぇと同意はするんだけどぐっとこない。
女も同様でどんなにきわどい格好をしても色っぽくない。
みんなこんなんで満足しているのかな。
記号的に色っぽいとされるものをこうまで否定できるのは自分の感覚としてうわ色っぽいと感じるものに出会ってしまったから。
授業で半強制的に見せられた白黒時代の邦画の中の女達の色気。
内容はあまり理解できていなかったけどちょっとしたカルチャーショックだった。
老若男女安全に観れるテレビだとか、みんなのアイドルだとかを目指しちゃうとどうしてもあやうい生々しい色気って出なくなっちゃうんだろうな。
保守と色気は仲が悪い。
日本はどんどん保守的になっているような気がしてならない。
脱線しすぎ。織日屋さんはまとめる気がないようです。
えーと。実はエンドロールまでトニー・レオンが出演していると気づかなかった!
じゃあちょっとむふふと思った男二人が同じ部屋に泊まるシーンはもっとむふふだったんじゃん!
トニーもレスリーもうなじが色っぽい。
うなじ、首、あごのラインが整っていて美しい。
それにはあの古風な髪形じゃなきゃだめなの。
じゃなきゃ色気は半減なんです。
これじゃあこの映画を例にとって色気について語っただけじゃん。
そろそろまとめというか本題に・・・。
映像が観ていて飽きないので感情移入できなくても楽しんで観れちゃう。
そう、感情移入できなかったんだなじつは。
激しい感情って自分にはシンクロしにくいし、一つの関係を時間をかけて追うという形じゃなかったのでなおさら。
でも「1分」というのはよかった。
どうでもいいと言われてしまうようなことに子供っぽくこだわってしまうっていうのウォン・カーウァイの他の映画にもあったような。
この監督の大人の子供っぽさって好き。
「ラスト・フレンズ」 腐女子だってドラマを観るさ!
ドラマ「ラスト・フレンズ」にハマる。
ネットをうろうろしていたら女×女の話だというので、どうせテレビドラマなんてさ〜と期待せずに観たらっ・・・すごく・・・イイです。
かゆい所に手が届く。そんなドラマ。
どうせテレビの展開なんて・・・。
いくら女らしさをオフした人物を出したってどうせ・・・。
どうせ金八の上戸彩の二の舞・・・。
私のどうせをよくわかっている。
ネットで第五話まで観ました。
第一話のあのシーンはきれいでよかった。
『トーマの心臓』のユリスモールとオスカーを彷彿とさせるような・・・。
流行に乗ってお寒いBLドラマとかやらなくってよかった、なんてなぜか胸を撫で下ろしている自分がいる。
男×男でもありだけど男同士でやるとなるとこんなシリアスには作ってくれないだろうと思うのよ。
あっでもダメだ。
「俺の○○に触るなっ!」とか男同士でやってたら絶対吹くわ。
美知留をかわいい物扱いするのが嫌だという瑠可の気持ちがわかりすぎる。
なんか女の子に可愛いと言えない。
二次元とタレントには言えるんだけどね。
そういう微妙なところをわかっていて気持ちがいい。
最注目株は「宗佑」だよやっぱり。
じわじわときていたんだけど、第四話でキュン死。
そんな小鹿のような目で見られたら・・・。
いやがらせレベル高ぇ〜とか、思っているうちにかわいくなってきた。
暗い部屋でひとり卒業アルバムを広げて黒マジックでキュッキュしているとことか想像すると萌えちゃう。
心の中では「王子(@日出処の天子)」とお呼びしている。
けなげで乙女チックで嫉妬深くて、そりゃあほっとけないよ。
毛人なんでっ!?とフラッシュバック。
なんとなく瑠可は性同一性障害じゃないほうがいいなー。
性転換して男になればこのもやもやは解決できるんじゃないかと瑠可は悩んでんじゃないかな。
女らしくもなく男らしくもない、そのままのあなたが好き。
女だから女を抱きしめたくなるという気持ちはわかる。
男として女を抱きしめたいというのとはまた違う感覚だろうと思う。
織日屋的には瑠可は前者の方がいい。
瑠可が後者100%になっちゃうとおもしろくない。
この場合性別じゃなくて男女役割的に。
瑠可もタケルもそこんとこ曖昧で、特にこの二人の関係は不安定でとてもいいな。
ほらあたしリバ好きだし。
人間関係がドロドロしているけどみんなやさしさから距離を取ろうとしていて生臭さがない。
瑠可が美知留に取る距離。
タケルが瑠可に取る距離。
美知留が宗佑に取ろうとする距離。
どのくらいが最適な距離かというのは私の問題でもあるので、悶々としながらこのドラマを観よう。
たぶん最後まで。
相対的愛のきらめき
4月下旬か5月初め頃詩作す。
恥ずかしいのは言うまでもなく。
自転車。日曜の朝。新しい光の中。走行する。君の部屋へ。
君は彩る。森のこびとの粗野な指をつかまえて。
魔法の釉薬は。広がる。君が言う「小さい爪」の上で。
煌めく海の波の色。
噎せ返るトナーの恍惚と揮発するエタノールの冷たさ。
夕暮れ。自転車。帰り道。違和を乗せて。ハンドルを握るエナメルの小爪。
頭の中が春だ。沸いてる沸いてる。
一時期恋愛モードでした。
恋愛をしたいという欲はないけれど。
というか私は誰かと恋愛しなくたっていーやと義務感から解放されたから、客観的に恋愛っていいわよねウフフアハハ状態になってしまった模様。
ジュディマリ初期のかわいらしい恋愛の曲(なんとなくラブソングという言葉が合わない)ばっかり聞いていた。
この歳になってこのかわいらしさにやられてしまっている。
なんだかんだで10年聞き続けているから立派なファンなのかなぁ。
そんで歌詞をちゃんと理解しながら聞くという習慣がなくて今になって歌っていいねと見直している。
それで詩のことなんですが。詩なんてはじめて作った。
私の人生ってそんなにカサついていたのかしらと掘り起こしてみたら、そうでもないぞというものが幾つか出てきた。
それが大事なもののような気がして、美化と演出で勝手に自動補正してしまっているのもわかっている。
まあいいじゃない、相手とまたやり直そうとするわけじゃなし、ただ私のカンフル剤にするだけだもの。
おばちゃんが青春時代を過剰に持ち上げる気持ちがわかってしまう22の春。
過ぎ去ってはじめて意味を持ち始めるのだ。
凡人に許された愛は相対的だから・・・。
織日屋にマニキュアを塗ってくれたあの子との思い出、という内容ですがやっぱりもちろん女同士です。
女同士だったけどアレって恋愛に近かったのかな?と自分の友人関係を振り返ったり、周りの友人関係を見たりしてそう思う。
お年玉全部遠回りしてその子と一緒に帰るための電車賃に当てたり。
一緒に居ると楽しくてなかなかバイバイができなかったり。
自分ではわからなかったけど見た目が似ているらしくその子とよく間違われたり。
最近読んだ『パプリカ』と『シッダールタ』で精神的にシンクロしているとだんだん顔が似てくるという描写があって、あっアレもそうなのかなと思い出す。
自然消滅した後の妙なぎくしゃく感はよく聞く元カレに会って気まずいというのに近かったんじゃないかしら。
満たされて安心して今では考えられないほど元気だった。
私ってレズビアンかバイセクシャルなのか…?
あの頃のレズ嫌悪もゲイの人が自分の性的指向を自覚するまでは異常に同族嫌悪するとかあるらしいし、それと同じなのかも。
でもまあ子供だったからできた同性同士の深い関係なのかもしれない。
大人の恋愛でもまっさらな子供の心になれないと上手くいかないのかもね。
大人になればなるほど人間関係がむずかしい…。
数週間前、ネイルアートキットが安く売っていたので購入。
爪同士をカチカチして剥がしてしまう癖があったので、逆に爪いじりをいい方向に持っていけたらいい。
そんなふうに爪いじりを計画していたら埋もれた記憶に火が点ってしまった。
詩を作る最終的な引き金はこれだったはず。
この頃色々なものが関連していることに気付いて上手く文章がまとまりません。
そういや卒論も広がりすぎてもうちょっと絞ってくださいって言われたなー。
この後もごちゃごちゃ書いたけどここで区切り。


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