セキララブログ
腐女子の赤裸々な雑記。イラスト描いたり萌えたり落ち込んでみたりと色々やってます。ブログを通じていろんな人と交流したいなあ。古い記事でも一言コメントしてもらえるとうれしいです。
『大神』に熱中人
ゲームに熱中しすぎてミニブログすら更新してない織日屋です。
ごく最近PS2買いまして、最初に買ったソフトが『大神』です。
本体売ってる店がPS2のソフトをあんまり置いてなくて、その中で評判を知ってたのはこれだけだったので。

やっと面白くなってきた、と思ったらラスダン目前だった
今はぐれ珠集めに奔走中で、残すはあとひとつ。
カイポクとの競争だけ。
これがまったく歯が立たない!
あとひとつなのに〜!
終盤とはぐれ珠集め以外はちょっと物足りない。
ヴィジュアルは素晴らしいんだけどなーもったいない。
和風で筆のタッチから材質感やらこだわっているし、獣の動きはかっこいいしかわいいし、キャラデザインが大胆でおもしろい。
目が点、口なし、胴長短足と萌え絵と真逆なのに魅力的。
カプコンのキャラデザが好きで、こまごまとしたプレイヤーの心くすぐる遊び要素が好きで、つまりはカプコンびいきかもしれない。
終盤のカムイ編から熱中した理由はわかる人にはわかる。
というわけで裏ブログにぶっちゃけトーク移行。↓
セキウラブログ
とうとう裏作っちゃった
キャラが勝手にホモにされてるのがイヤという人はスルーでおねがいします。
大神でカップリングなんて夢にも思わなかったんだぜ。
あさのあつこ『バッテリー』 大人が書いた大人の葛藤

だいーぶだいーぶ前に全巻読んだんだけど、長編をしっかりレビューするのがメンドーで後回しにしてし過ぎた。とほほ。
そんで細かいことは覚えてないし、なしにして簡単に感想を書くよ。
原田巧は類まれなる才能とそれと比例するような形で高いプライドを持っていた。
野球チームでピッチャーとして活躍するには、協調性がなくてはならない。
コーチその他ルールに従わなければならない。
あさのさんはそういったものに原田巧をぶつけて見たかったんだと思う。
自分がしぶしぶとそれが合理性を欠いていたとしても受け入れなければならなかったものに。
協調性を学ぶ成長物語にはしたくはないということが何巻かのあとがきにあった。
プライドとそれに有無を言わせない程の才能を持った孤高のヒーローとして、服従や協調を強要するする世の中でどこまでやれるのかが原田巧の背負ったテーマだと私は思う。
そしてやっぱり答えは出せなかった。んだと思うよあのラスト。
ぐだぐだになってきている感があって、やな予感はしたんだけれど。
豪との関係も行き詰っているようだったし、才能が認められてくるとあとから協調性がついてきて原田巧の鋭さがなくなってきているようだったし。
戦うものがないとヒーローは輝かない。
まるで反抗的なロックバンドが人気が出て世間に認められて解散せざるを得なくなるジレンマのようだなあ。とこれが言いたかったのよ。
この作品かなり騒がれてだから気になって読んだんだけど妥当な評価がなされているんだろうか。
隙間を残して終わったというより、終われなかったというような感じがして。
なにより『ガールズブルー』のほうが好きだからなあ。
こっちをもっと評価してよ、となっちゃう。
でも時間が経ったいま、原田巧というキャラクターが好きだし、最後まで妥協できなかったあさのさんもいいなあなんて思っている。
意外と私バッテリーには萌えなかったなあ。
萌えの点でも『ガールズブルー』の方が好きだ。
ガールズにもボーイズにも萌えた。
『バッテリー』人気は萌え効果の影響も大きかったのか!?
購買層が気になる今日この頃。
で、昨日この記事を書きながら、あれーどっかでバッテリー完読の感想をメモに書いたんだけどアレは夢だったんだろうかと思って、今日ファイルをがさごそしていたら出てきたっ!
遅いよ!先に言ってよね!
もったいないからコピペしておく。
内容はほぼ一緒なんだけど、ストーリーをちゃんと把握しているし説得力あるよ。
鉄は熱いうちに打たんとダメだね。
以下さっきのより新鮮なレビュー↓
Hi,ユージーンです!「バッテリー」完読したので報告です。
あまりに長いスパンで読んだのであまりまともな感想は書けない。
あの最終巻の尻切れトンボっぷりの印象が強すぎてどうしても批判的になってしまうのです。
行き詰ってるなーどう落とすんだろうもうページないぞ、とか思ってたらとうとう落ちなかったな…。
ああ、オチなかったと妙な感慨にふけってしまったよ。
あれだけ長い物語であの終わり方はちょっとショックでしたが、今思えばしょうがないかな〜と妙に納得してしまうところもある。
孤高の天才ピッチャー原田巧とバッテリーを組んだキャッチャー永倉豪が野球をするというお話です。
人を寄せ付けない自信家で、それを裏付ける才能をもった主人公原田の周囲で渦巻く嫉妬や羨望。ただマウンドで投げたい主人公。
でも野球をするにあたり先輩やら監督やらライバルやらとのしがらみからは逃れることができなかった。
相方の永倉豪もその例外に漏れず、身近であるからこそなおさら。そんな野球というさわやかなイメージとは一転した、人間関係の濃密な愛憎劇だった。
煩わしくついてまわる人間関係や規則を断ち切って野球をしたい主人公。
そして当然周りから目をつけられて力で押さえつけようとされる。
あさのさんは媚びず妥協しない完璧な理想である原田巧を世間に真っ向からぶつけてみたかったんだと思う。
そして彼に周りの圧力に負けず潰れて欲しくないと願いながら、人とのかかわりはどうしても断ち切ることはできないという葛藤があった。
終盤でなんだか丸くなってしまった主人公とかにその葛藤の跡が見られる。
彼が周りに認められてしまったらもうこの物語での役目はなくなってしまうのだ。
ロックバンドが人気になって行き詰って解散してしまうように。
田口ランディ『モザイク』 世界と融け合う
田口ランディにトライしてみました。
ネットで対談のようなものを読んでこの人に興味を持った。
統合失調症やスキゾイド関係の話だった。
映画『グラン・ブルー』の主人公って絶対分裂病質だよねと思って検索して行き着いたんだっけな。
それで近所の本屋で適当に買ったのが『モザイク』だった。

いや〜モロそういう話だった。
分裂病質をかなり肯定した話で、私自身すでに肯定に肯定を重ねて少し落ち着いてきているので、今の状態で読むとここまで肯定しちゃっていいの?と少々不安にさせられた。
でも必ずこういう全肯定必要としている状態の人っている。
太宰治にしてもナルシストだの自己中だの言われているけど、生きるか死ぬか気が狂うかの瀬戸際で誰にも頼れない状態の人には支えになるものが自己愛ぐらいしかないんだ。
ぎりぎりの自己愛を保つのは難しく、他者との比較によって相対的に位置づけようとする
「私はあなたとは違う」と思うこと自体には何の罪もない。
違うことに苦しんでその苦しみから逃れようとする時、違っている自分を強く肯定したら周りは自分が否定されているように感じてしまう。
危害を加えようという気がなくてもやっぱそんなの他人から見たら腹が立つことなんだろう。
例えば『モザイク』に登場する狩野のように。
驚いたのは私が12月に体験したこととほぼ同じことが書かれていたこと。
『荒野のおおかみ』を読んだせいか、ノロウイルスで飢餓状態だったせいか、とにかくタガが外れてトリップ状態のようなものを体験してしまった。
私といものが空気中に溶け出して隅々まで広がって、見えない部分がないようなすべて把握して体感しているような感じだった。
鋭くて、曖昧さのない明白な世界。
私の意識はボーっとしていて、歩いていても店で品物を手にとっても何も考えられない。
ただ明白な世界を感じているだけ。
それがやな感じではなかった。
全部わかるし、全部オーケーのような気がした。
私のこんな体験も結構普遍的なものなのかもしれない。
第六感が働いて、通常見えないものが見えてしまう人が登場する。
幻覚・幻聴が見える、聞こえる人は統合失調症に分類されてしまう。
あってはならない病気とされてしまう。
宇宙人や妖精が見えてしまったら幻覚かもしれないと周囲の人は考える。
でもそれが普通の人間とか動物だったら本人も周りも幻覚かどうかわからないままかもしれない。
何かを真実であると言い切ることはできなんじゃないか。
ひっくり返せばその人にとって真実であればいいんじゃないと思う。
それでも人間って不安なんだよなー、自分たちとは違うあの人の存在や自分ひとりだけだったりすることが。
私も12月の体験が共有されていることに安心しているし。
全部オーケーなんてその時は思っていても、そのあと不安になることもある。
ただあの体験は私の転換点だったかもしれず、不安の度合いも質も違うような気がする。
人はみな違っているけど、根本的には同じなんだ。
そんな矛盾しているようなことが私の心の支えになっていて、私がつらいことは誰かにとってもつらいことで、私がそのつらさによって生きることをリタイアしたらその人にとってなおさら生きにくい世界になるんだ、とがんばってこの世界にぶら下がっていられる。
レビューでなくなってきた
もっと作品を客観的に見なきゃ。
そう、私にとってはとてもなじみのある内容だったんだけど、メンタルヘルス系に興味のない人が読むとわかりずらいかもしれない。
私だってうつ病、人を避ける系の人格障害は実感が湧くけれど、依存系はまだしも反社会性やらなんやらどういう人なのか想像もつかない部分も多い。
今度は逆に依存系、反社会性の話も読みたい。
タガが外れた後に読んでしまったから私には再確認のようになってしまったけど、それ以前だったらもっと興奮してのめり込んでいたかもな。
人生に影響を与えた一冊になってたかも。
さて世の中どうなるんだろう。
それを見るためだけに生きてみるのも悪くないんじゃなかろうか。
記事を書くので手一杯
記事を書いてぶわー書き終わったぞ、と満足して終わり。
ない頭をひねっているので結構時間がかかる。
さらにはメモ帳に書いておいて、長時間熟成させまた書いて、という要領の悪さ。
ブログ村のトラックバックとかいじる気力がないよー。
こういう愚痴ならたくさん要領よく書けんのになー。
レビューとかもどうしよ。
時間がたつにつれ忘れていくし。
とりあえずこれ見た、これ読んだメモでもいいか。
要領悪いのにへんに完璧主義だったりするのがいけない。
あとamazonのなんちゃらショップで自分の好きなもの、気になるものを寄せ集めしようとしてたんだ。だいぶまえに。
まあ追々、楽しく、ストレスの発散に、唯一言いたい放題言える場所としてブログやっていくんだな。
"無理矢理やっちゃて、なんか知らんうちにラブラブ"なBL
"無理矢理やっちゃて、なんか知らんうちにラブラブ"なBLについて考えてみる。
正直好きじゃないタイプの話だけど、だからこそ自分なりに推測してみました。
フェミニズム的に無理矢理→ラブラブ型のBLを見てみました。
フェミニズムってなんなんだってとこを(私が)すっとばして分析。
"腐女子は受けの少年に自己投影"にもの申す、な攻め視点寄りの私。
この場合、どうして攻めは愛している受けをレイプするのかと考えます。
そうすると女達の復讐としてのレイプなのかなと思うんです。
男性も誰かに支配されてしまうかもしれないということに少しは恐怖しなさいよっ、みたいな。
その支配の最たる形が男性に挿入されるということになる。
どうもBL作品が挿入というところに力点を置いているように感じるのは、男性を女性の立場に引きずり落とすためで、だから女性が男性をレイプするという話は見かけない。
あるのかもしれないけど、腐女子と名乗る人でこういうのが好きだっていう人は見たことがない。
引きずり落とすってとてもサディスティックな表現だけど、もしこれが単にフェミなら腐女子のなかで完結しないで、男性側にアプローチするとか世間に主張するとかあってもいいはず。
なんでできないのか。
一度男性の立場を破壊してしまわないことには、男性と関係を持つことができない。
そしてそんなことはやはりやってはならないし、実際にはできないと諦めているからかな。
"知らないうちに最後にはラブラブ"について。
抵抗できないほどの力でねじ伏せられ、犯される。
そういう体験を持った、そういう支配される恐怖をわかる男性としか恋愛できないよーということで無理矢理→ラブラブに飛躍するのかな。
完膚無きまでに破壊してようやっと鬼の仮面を外せる。
ようやっと自分の目指す男女の恋愛にたどり着く。
こうしてみると受け側がレイプに対して最後には恨みとかがうやむやになるのもうなずけるじゃないですか。
まあ女の都合のいい話でだからこそBL界は閉鎖的なんだろうけど。
でもこれって攻めの方に視点を置いた場合で、受け=読者とするとまたややこしくなる。
私はどうも攻め側に立ってしまう傾向があるし、支配されたいという感覚がわかりにくいからなあ。
こういうタイプの話の受けは初めっから女性的だったり、元々少コミ系の男女ものの影響がありそうだし、本来受け側に立つべきなのかもしれません。
BLとやおいの個人的なニュアンスについて
BLとやおい
当ブログではそれとなく使い分けちゃってるんだけど、腐女子感覚を持っていない人にとってはまったくそのニュアンスの違いって理解できないだろう。
それに本人もそのへんあやふやです。
なんで、織日屋的にはどんな違いかこの場を借りてはっきりさせておこうと思う。
どちらもノーマル、ステレオタイプからはみだしてゆく快感を含んでいる。
だけどBLの場合、すべて恋愛という関係の中でのみそのズレ感覚を楽しませる。
ズレとは普通男女で行われるべき恋愛模様を男同士で行うから起きるズレだ。
それならやおいのズレ感覚ってなんだ。恋人でも友人でもなく、恋愛と友情の間。
なんて言い回しも通用しない、分類を拒む形容しがたき愛そのもの、とでも言えばいいのか。
やおいはすべての分類からズレてゆく。
だからまったくセックス描写のない男同士のお話でも、恋愛感情だと本人たちが自覚していればそれはBLだし、女同士でも男女でもやおいは成立する。
ほとんど見かけないけどセックスしていてもやおいってこともあるだろうし。
と織日屋は勝手に区別しているけど、一般的に定義されているわけではありません。
あしからず。
ゲイカルチャーで使われるクィアにニュアンスが近い?
詳しくないのでなんとも。
私が腐女子とかやおいとかうまくニュアンスを伝えられないのと同じく、内輪の言葉って外部にうまく説明できないもんだし。
別にやおいはよくって、BLはよくないというわけじゃなく、好みのBLになかなか出会えないからBLが苦手なだけ。
大量生産されるBL作品の中から探すのは骨が折れるから嫌だ、というレベルです。
でもBLがなくてもなんとかやっていけても、やおいがないとやってらんないかもねえ。
美少年は自分の性を直視せずに恋愛を体験したい少女の代理なんだという説明が多い。
だけどどうかな。攻めの視点で読む人もいる。(あ、あたしだぉ)
BLはいま、女らしさはもちろんのこと男らしさまでにも揺さぶりをかけていると思う。
いかにもか弱い美少年って感じの受けじゃなく、実際にそこの辺にいそうな若者が受けだったり、受け攻めの境界が曖昧だったり、攻めが優位に立つわけでなかったり。
最近はそんな作品も多い。(いや私が選り好みしていることもあるか・・・。)
男らしくなくてもいいんじゃないの。というメッセージのようにも聞こえるんだ。
なので男性もBL読んでみると意外と面白いかもです。
男をやってるのに疲れちゃったときなんかどうでしょう。
なんでそれを女が読むのかってのを考え直さなきゃいけないんだけど、またの機会に。
男女の境界がなくなり。リードする役、受身の役の境界がなくなり。
そのうち恋愛の境界がなくなり、やおいに向かっていくんじゃないかなと思ってるんだけどどうなんだろう。
雁さんとか。雁須磨子さんとかさー。そんな雰囲気。
腐女子の癖にカバー力がない・・・。
精進します。
乙女ロードに偵察に行ったりな。
欲望まみれの「かわいがり」
「かわいがり」なんてエロチックな響きでしょう。
いまさらですが、しかも世事に疎い織日屋ですがどうしてもこの言葉がアンテナに引っかかって気持ち悪いので記事にしちゃえー。
もちろん相撲稽古の「かわいがり」です。
でもほらなんか腐女子としてはこの言葉から変な妄想が頭を駆け巡りませんか?
私の頭がおかしいんだよね。や、不謹慎ですみません
でもあながち間違っちゃいないような気がしてならないんだ。
支配権の取り合い、欲のぶつかり合いは時にとてもエロティック。
男と女のゲームなんてのも支配欲のぶつかり合いだ。
誰かを支配したいという欲求は多くの人に共通するものだと思う。
でも実際に支配しちゃだめなんだよ。
同時に支配されたくないという欲求も基本的に誰しも持っている。
それをひねり潰す権利はない。
男と女のゲームなんてものが成り立つのは本人たちがゲームであることをはっきり自覚しているからなんだ。
支配したい、支配されたくないという気持ちを相手が持っていることを前提に欲望を遊ばせる。
ルパンと不二子の関係なんかいい例。
不二子に襲い掛かるルパン、ルパンを出し抜く不二子。いつもその繰り返し。
やられちゃいましたーと不二子に白旗を揚げるルパンはなんて大人でかっこいいんだと大きいお姉さんになってからやっと気付きました。
ルパンが支配欲剥き出しにしたらこの関係は破綻してしまう。
また不二子もルパンが許してくれるだろうことをわかっているから自由奔放でいられる。
ルパンと不二子の騙し騙されのループにとてつもない信頼関係を垣間見たのでした。
完全に支配しちゃったらもう楽しめないじゃないという高度で大人のゲーム。
ていうかツンデレ甘々カップルが単に好きだってことか。私が。
叱った方が伸びるは錯覚なんだそうだ。
相撲界にしろなんにしろ教育という名で自分の支配欲を振りかざして満足させるのはもう終わりにしたほうがいい。
それってものすごく卑怯なやり方だ。
「かわいがり」なんていう言葉が現実に流通しているなんておかしい。
そんなのはちゃんとした(笑)SMプレイか妄想の中だけにしてくださいよ。
誰か時津風親方にプライドの高い弟子をかわいがるエロ同人を描いてやってください。はなむけに。
"ふたり"はアンバランスな人数
最近溜まっているのでとりあえずキーボードを叩くことにした。
日常の不協和音を溜め込むのはよくない。
私は母と二人暮らし。
ふたりきりって苦手だ。
三人がベストだと思う。
二人がしゃべっているのを聞くもよし、聞かぬもよし、茶々を入れるもよし。
ふたりだと私は"何か"を求められる。
そして調停者はなし。
どっちが正しいか正しくないかの争いになる。
どちらかが折れなくてはいけない。
それが親子となれば私は常に折れる側だ。
正しい正しくないの判断は問題とならない。
今日母は「わたしのこと殺そうと思っているでしょう」と聞いてきた。
「まさか」と答えると「いやそう思ってるね」と確信を持っているらしい。
本当に殺されることに怯えているならこんなことを本人に言うわけないと思う。
冷静で切羽詰った感じではなかった。軽々と言ってのけた。
それにこれが初めてではないのだ。
少年が親を殺した事件のニュースを見て「お母さんのこと殺そうと思ったことある?」と聞いてきたりする。
それも何度も。
どこまで冗談なのか、本気なのかわからない。
そして「別に殺されたっていいけどね」でしめる。
私は試されているんだろうか。
釘を刺されているんだろうか。
まさかおまえはそんなこと考えてないよねという確認?
そんなこと考えていたとしてもまさか実行しないよねという確認?
何の意図があるのかさっぱり読み取れず気味が悪い。
私は母が憎い。しかもこうして増長されてゆく。
でも殺そうなんて考えたことはない。
変なイメージに取り付かれそうになるからもうやめて欲しいんだ。
そんなことを日々聞かされていたらほんとにカッとなって首でも絞めてしまうんじゃないかとノイローゼになりそう。
ゲームが有害だって?漫画が有害だって?
一番有害なのはあんただよ。
ふたりはつらい。息苦しい。
何言ってるの馬鹿じゃないと誰か言ってくれないか。
私一人がそう言っても信憑性がない。
しかも自分の否定が自分でも信頼できないような気がしてくる。
調停者が欲しい。
言葉は無力。
「老後看てもらわなくても全然いいから」ということも何度も口にする。
今老人ホームにいる祖母の世話をしている母。
その言葉の裏には"強制されなくても自分から進んでやってくれる優しい娘"が求められているということはわかる。
おそらく無意識のうちに意味を込めている。
この無意識の意図が恐ろしい。
読み取れなかったらなお一層恐ろしい。
言葉は額面通りじゃないんだ。
なにも伝えちゃくれない。
特に私の母の言葉はバラバラで上手く読み取れない。
無意識に矛盾したことを言う。
過去の発言に無責任。
私は母がそのとき言ったことをその場で鵜呑みにしないようにしている。
こうやって私は母との信頼関係から遠ざかってゆく。
しょうがないと諦めている。
だって無意識のうちにやっていることなんだもの。
でもさ無意識の誰にも咎められない罪ほどタチの悪いものはないよなあと思う。
しかも無意識だから繰り返す。
それにしてもなんで私に殺されるなんて思ったんだろう。
部屋を漁って都合の悪い走り書きでも見つけたのだろうか。
母にとっても私は通じ合えない得体の知れないものになっているのかもしれない。
家族って自分たちでは関係が病んでいるのかどうかわからないんだよね。
私が自分たちは病んでいるかもしれないと意識できただけでも前進なんだ。
『ゴーストワールド』 亡霊なのは世界?それとも私?
『ゴーストワールド』を観ました。

映画は最近集中力が続かなくて、細切れで観ているんだけれどこれは見入ってしまった。
気付いたら一気にラストまで観ていた。
ちょうどいいデフォルメ具合とか映像の面白さのおかげで飽きずにするすると入ってくる感じ。
こんな世の中ついてけねーよな主人公イーニドと親友レベッカ。
まわりの登場人物がノリノリ過ぎれば過ぎるほど冷めてしまう。
レベッカはなんとか我慢して折り合いをつけて生活しようとしている。
イーニドはそれができない。
色々馬鹿らしいことが目に付いて我慢できない。
タイトルどおり、世界がぼやけて遠い感じをイーニドは感じていたのかな。
なんかわかるような。自分がただの傍観者になってしまっている感覚が。
イーニドは音楽マニアのシーモアと妙な意気投合をする。
シーモアは自分の世界を構築して自分だけ楽しければいいやという孤独なオタク。
コレクションしたもので構成された部屋で自分の世界を満喫する。
私これちょっとあこがれの生活だな〜。
そしてシーモアの現実世界を諦めている感じに共感した。
私はマインドがおっさんなのかな。
若い子に振り回される中高年男性に自分を投影してしまう。『ベニスに死す』とか。
もちろんこれでも健康な(?)うら若き女子大生なのでイーニドの焦りもよーくわかる。
主人公イーニドが自分とおんなじことを言っててびっくりした。
誰にも何も言わずにふといなくなってしまいたい。
ここから脱出したい。
ありがちだけど、世の中への姑息な復讐の最良の方法のような気がしている。
いまはここでもいいかなと落ち着いているけど、いつうわああ〜脱出してやるーとなるかわからない。
恋ってなんだろうか。と悩ませてくれる映画だった。
恋って予定調和のなかでしか成立しないのかな。
シーモアとイーニドの関係こそ人間らしい関係のように思えるのに、それだけではうまくいかないんだろうか。
あれが恋でないにしてもいい方向に向かって欲しかった。
イーニドはきっとどこかでイーニドらしく生きている!と信じています。
イーニドの服は萌える!
セーラーとかメイド風とか胸開きチャイナとか。えろかわっ。
私のなかのクリスティーナ・リッチ萌えと近いものがあるねっ。
不服顔の女の子が大好き。
リッチ好きの人はチェックだ☆
太宰治『斜陽』〜追求と実現の徹底者〜

太宰治『斜陽』を読み終わる。
『パンドラの匣』ほど明るくなく、『人間失格』ほど暗くなく。
主人公かず子の強さがどうも頼りなく、不安にさせられたまま終わってしまった。
大丈夫なのかしらこの人は。
いつ死んでもいいや。それまで生きてやる!みたいなバイタリティーはないし。
いつ死んでもいいやとやけっぱちに破滅的になるでもなく。
消化不良だー。『パンドラの匣』のようにすっきり爽快というわけにはいかなかった。
かず子の恋もなんか恋に恋するみたいな、無理やりその人のことを好きなんだと自分を思い込ませているように感じたし。
何の目標も思想も無く、どこへ向かうかわからないけれどとりあえず生きてみる。
あの状況でそう考えられるのはやっぱり強さかな。
それもかなりぎりぎりの。
冒頭のお母さまの描写がいい意味でものすごく少女趣味。
あの頃あこがれたあの世界。
いや今でも憧れなんだけれど、今ではなかなか創作の中ですらお目にかかれない本物のあの世界が生き生きと目の前に広がる。
純粋さ、美しいもの、真実の愛にこだわりにこだわっている太宰先生が好きだ。
純粋な女(少女)が好きだなんていう男性の作品ってうっざっ!ってなることが多いのに、太宰作品の中の純粋な女たちにはいつも魅入られてしまう。
そんな女たちに恋をする男性の気持ちにも同調してしまう。
直治・・・。
女=太宰自身でもあるからなんだろうな。
純粋であること、真実であることは自分にも課した問題でもあった。
だからこそ純粋な女にもリアリティーがある。
『人間失格』の中だったか、女がどうしてもわからないという記述があった。
太宰作品の女たちはこんなにも女である私の共感を得ているのにそんなことをいう。
自分と女が違うということが、どうして違うのかわからない。
だから女がわからない。
男である自分と女のあなたはそんなに違いはないんじゃないか。
男と女である以前に人間対人間であることを求めていたんじゃないかなあ。
最近そんなことを思う。
札つきの不良より札のついていない人間のほうがもっと危険な不良なんじゃないか。
心当たりありすぎる。
裁かれない罪を背負っているのに平気で生きている自分が恐ろしくなる。
裁かれないというのは自分が隠しているからじゃなくて、世間では気にしすぎだと一蹴されてしまうようなことだからなんだ。
世間ではどうでもいいこととして裁いてくれない。
裁かれない罪に無自覚であることを太宰治は許さない。
それでわかりやすい札つきの不良になってしまう徹底はすごい。
『人間失格』を読み直したい。
いま読むと感じ方が違うだろうなあ。
『ロレンス 1918』 間違えちゃったっ てへ☆
ロレンス1918
同性愛映画制覇しちゃおうかな。
BLに飽き飽きして魔が差してそんな野望を抱いたこともあったのです。
最近はあちこちにまだまだ面白いものは転がってるはずだ。なんて色々な世界を放浪していますが。
また原点(?)に戻って有名な『アラビアのロレンス』観ようとビデオを借りてきた。
ら。間違えちゃったっ。
『ロレンス 1918』は『アラビアのロレンス』のその後を題材にしてイギリスのTVで放送されたドラマ。
だから内容についていけませんでした
でもロレンス役のレイフ・ファインズはよかった。
あとファイサル役の俳優もいい。
二人とも目がきらきらしまくってた。目がきれいな人たちだ。
これがテレビ放送というのがすごいなあ。
こんな演技ができる役者たちを集めたり、映画並みの品質の作品がテレビで観れるってうらやましいぞイギリス。
日本のドラマもがんばってよ!



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